(2) ショパン:舟歌

ショパンと言えば「ピアノの詩人」です。
月並みな表現ですが、そこに「ピアノは文学的な楽器」だと言ったメニューヒンの言葉を重ね合わせると、とたんに見えてくる風景が違ってきます。

ベートーベンがピアノという楽器を使って作り上げた世界は「驀進」と「構築」です。「驀進」については「月光ソナタ」のところで少しふれました。
「構築」については、例えば「熱情」や「ワルトシュタイン」や「ハンマークラヴィーア」を聞けば何となく雰囲気が分かります。

「構築」の特徴は、音楽を聴き終わった後に、実に立派なものを聞かせてもらったという印象が残ることです。そして、その「立派なものを聞かせてもらった」という感情は、例えばミラノの大聖堂やフィレンツェのドゥオーモを見上げたときに引き起こされる感情とよく似ています。
見るものを圧倒するあの「立派さ」は、間違いなく「構築」のなせるわざです。
そして、「立派さ」という物差しで価値判断すれば、ミラノの大聖堂やフィレンツェのドゥオーモが建造物の頂点に位置しているように、ベートーベンのピアノソナタも音楽の頂点に位置しているのです。

人は間違いなく「立派」なものを求めます。
親は子に立派な人になれと言いますし、先生も教え子に立派な人になれと言います。社会人になれば早く一人前の立派な大人になれと諭されます。
しかし、先人にこの上もなく立派な人がいて、その人に負けないほどに立派な人になれと言われれば困ってしまいます。偉い親を持った子供の悲劇はここに起因します。

何ともしんどい話で、馬齢を重ねることで、やっとこさ立派な年寄りになれとは言われなくなります。

ベートーベンの時代のピアノは音域は6オクターブでしたが、ショパンの時代には7オクターブを超えるようになります。構造もまたより強靱となり、鍵盤をたたきつけることでしばしば切れてしまった弦も、ショパンの時代になるとピアニストの強靱な打鍵を受け止める事ができるようになっていきました。ピアノは未だに発展途上の楽器であり、音域においても音量においても拡大を続けていました。
しかし、その様に進化し続けるピアノを前提としても、もはやベートーベンのピアノソナタよりも立派な音楽を作ることは不可能でした。

ならば、彼に続く世代は「立派さ」とは異なる世界で勝負するしかなくなります。
そこに彗星のように登場したのがショパンでした。

ショパンを世に紹介したのはシューマンです。

「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」

ショパンの天才は、「立派さ」とは異なるパラダイムで「立派な」音楽に伍していけるような音楽を作れることを実証したことでした。

誤解を恐れずに言い切ってしまえば、ベートーベンはピアノの音を煉瓦のように扱い、その煉瓦を積み上げてミラノの大聖堂やフィレンツェのドゥオーモのような音楽を作り上げました。
それに対して、ショパンはピアノの音で詩が語れることを発見し、そして見事に語って見せたのです。

そして、さらに誤解を恐れずに言い切ってしまえば、ショパン以後のピアノはベートーベンの「立派な」音楽は敬して遠ざけ、ひたすら詩と物語を語り続けてきたのです。
まさに、ショパンを一つの画期としてピアノはメニューヒンが語ったように「文学的な楽器」になったのです。

そんなピアノの詩人に相応しい1曲として、ここでは「夜想曲(ノクターン)」でもなく「エチュード」でもなく、「舟歌」を取り上げます。
ショパンが最晩年に書き上げた最後の「大曲」です。
演奏時間が10分にも満たない作品を「大曲」と言えば訝しく思うかもしれませんが、晩年のショパンにとっては堂々たる「大曲」なのです。

舟歌とはイタリアはヴェネチアのゴンドラに揺られている風情を音楽で表現したものだと言われています。メンデルスゾーンやフォーレも同じコンセプトで曲を作っているのですが、このショパンの舟歌が規模においても質においても最高傑作です。

舟歌の特徴は常に揺れていることです。
その揺れ続けるゴンドラの伸びやかさをもたらしているのは、左手が絶え間なく繰り返す8分の6拍子のリズムです。
このようなしつこく繰り返されるリズムのことを業界用語で「オスティナート・リズム」と言います。「オスティナート」とは「執拗な、頑固な」という意味を持っていて、この典型がラヴェルの「ボレロ」です。

この舟歌でも、このゴンドラが揺れるようなリズムパターンを執拗に繰り返し、その上でショパンらしいメランコリックなメロディが展開されていきます。
ぱっと聞くと、冒頭の主題が繰り返され、その合間に魅力的なメロディラインが挟み込まれているロンド形式のように聞こえます。しかし、音楽を聴き終わったあとには不思議な統一感が残ります。もちろん、それはベートーベンのように「立派な」音楽を聴いたというような感情ではなくて、たとえてみれば一編の詩を聞いた後のような感情です。

どうしてなんだろう?と思ってもう一度じっくりと聞いてみれば冒頭の主題とは異なるメロディラインが40小節目あたりに登場する事に気づきます。このメロディは繰り返される冒頭主題の間に挟み込まれたメロディではなくて、聞きようによってはが第2主題とも受け取れます。

つまり、、冒頭の主題が第1主題、その後に登場する主題が第2主題とも受け取れるのです。確かに、この二つのメロディは対照的で、ソナタ形式の第1主題と第2主題のお約束にもそっています。

そして、この第2主題に当たるメロディラインが一段落すると、あれほど執拗に繰り返されていた左手の揺れが収まります。
しかし、それもつかの間で、ハッとするほど美しいトリル(重音によるトリルですね)によって冒頭の第1主題(?)が変奏された形で帰ってきますし、第2主題に当たるメロディも再現されて終結部になだれ込んでいきます。

つまり、何が言いたいのかと言えば、この舟歌は耳あたりの良いメロディを接続しただけの音楽ではなくて、受け取り方によってはソナタ形式のような精緻な構造を持っていると言うことです。
そして、ショパンの天才は、そう言う緻密な構造は服の下に隠して、ニーチェが「そこでは神々も気楽にからだをのばす」と語ったようなポエムの世界を聞かせたことです。

さて、そんな舟歌を誰の演奏で紹介しようかと悩んだ末に選んだのがこれです。

(P)イブ・ナット 1953年3月6日録音

何も、こんな古いモノラル録音を引っ張り出してこなくても、既に多くのステレオ録音がパブリック・ドメインになっているだろう!と言う声が聞こえてきそうです。
また、聞いてみれば、ある意味では「不器用」と言えるほどに愚直に一音一音をガッチリと演奏していて、違和感を感じるほどの「ゴッツイ」感じのする演奏です。正直言って、指もあまり上手く回っていなくてピアノの響きもそれほどクリアではありません。しかし、この不器用なまでの愚直さのおかげで、ショパンが服の下に隠した精緻な構造が一点の曖昧さもなく表現されていることがよくわかります。そして、それはテクニックにおぼれるあまり細部にとらわれすぎて全体を見失い、結果としてつまらない接続曲のようになってしまっている演奏とは対極にあります。

ただし、こんな古い録音では嫌だという方も多いでしょうから、最初に聞いてはいけない演奏の定番とも言うべきホロヴィッツも紹介しておきます。
ただし、くれぐれも、一番最初にはお聞きにならないように・・・。(^^;

(P)ホロヴィッツ 1957年2月23日録音

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