(12)ハイドン:交響曲第104番 ニ長調「ロンドン」

エステルハージ実験工房

ハイドンの前半生は謎に包まれています。ウィーンのシュテファン大聖堂で少年聖歌隊員として活動していたことは知られているのですが、声変わりをして放り出されてからどのような人生を送ったのかが全く分からないのです。
ただし、何の伝手もなく放り出された後の人生が幸せなものでなかったことだけは間違いないようです。

それでも彼は作曲を続けていくことが、人生における最大の望みでした。

Franz Joseph Haydn

そこから、彼は独学で音楽を学び、聖歌隊を放り出されてから10年後には大貴族であるエステルハージ侯の楽団を任されるようになるのです。
当時としてみれば、たいへんな出世物語なのですが、そこにはハイドンのすぐれた資質だけでなく運も大いに味方したのでしょう。そして、ハイドンはその後28年にわたってこのエステルハージ家に仕え、その求めに応じて作曲と演奏活動を行ったのです。

それは、作曲を続けたいという自分の望みが実現したことであり、エステルハージ侯からの求めに応じて作曲して演奏するという義務を果たしてさえいれば、後は自由に振る舞うことが許されるという理想的な環境でした。
つまり、求めに応じた音楽になってる限りは、そこにどのような実験的試みを投げ入れても何の問題もなかったのです。

大切なことは、目の前の求めに応じることであり、そこには有名になりたいとか、後世に名を残したいとか、または出版をしたいなどと言う野望などは全くなく、ただ己の興味のおもむくままに新たな手法を投入しながらその求めに応じつつづけた28年だったのです。

その意味では、エステルハージ家での28年間はまさに「エステルハージ実験工房」とでも呼ぶべきものだったのです。
そして、実験というものは外野からの雑音に邪魔されない静かな環境に置いてこそはかどるものです。

ハイドンはこの閉ざされた環境の中で己の創造力を羽ばたかせ、そして、様々な試みを積み重ねていく中で交響曲とオーケストラの形を整えていくのです。

そして、その実験の積み重ねが大きく花開くのはハイドンの名声がヨーロッパ全体に広まった後半生であって、「パリ交響曲」とか「ザロモンセット」とか呼ばれる一連の交響曲に取り組んだときでした。

それらは、出版業者や興行主からの依頼で、エステルハージ家のためでなく一般市民を対象としたコンサートのために作曲された交響曲でした。
彼は、これらの依頼を受けて、今までのエステルハージ家での試みの中で、一般化できるものとそうでないものとを峻別しました。

エステルハージ家という狭い世界の中ならば「うけた」試みも、一般市民を対象としたコンサートでは「うける」とは限らないからです。

例えば、交響曲45第番「告別」では、最終楽章に一人また一人とプレイヤーが退場していきます。
楽団員の帰郷の思いを主人に訴えたこの趣向はその時のエステルハージ家では「うけた」のですが、決して交響曲のスタイルとして一般化できるものでないことは明らかです。

ハイドン:交響曲第45番 嬰ヘ短調 「告別」

Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor “Farewell”[1.Allegro assai]

Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor “Farewell”[2.Adagio]

Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor “Farewell”[3.Menuet (Allegretto) & Trio]

Haydn:Symphony No.45 in F Sharp minor “Farewell”[4.Finale: Presto]

ハイドンは、今までの成功体験の中から、何が一般化できるのかを厳格に選び取って、以下のようなスタイルを確定していきます。

  • 第1楽章 – ソナタ形式
  • 第2楽章 – 緩徐楽章〔変奏曲または複合三部形式〕
  • 第3楽章 – メヌエット
  • 第4楽章 – ソナタ形式またはロンド形式

舞曲形式の3楽章で終わることの多かった交響曲を、しっかりとした終楽章をもった4楽章構成にしたのはハイドンでした。
何故ならば、貴族のサロンで演奏されるのではなく、多くの聴衆を対象としたコンサートで主役を務めるためにはそれくらいの重量感が必要だったのです。

そして、前半3楽章を「ソナタ形式 – 緩徐楽章 – メヌエット」という組み合わせにしたのも、それがもっともバラエティに富んで聴き応えがあると判断したからであり、後の時代もその判断を支持したのです。

第1楽章のソナタ形式は、人間の声に基づく歌の世界からもっとも遠くに存在する純粋に器楽的な世界を作り上げます。
彼は、この形式を身につけるためにフィリップ・エマヌエル・バッハから多くのことを学んでいます。もちろん、この両者には直接的な師弟関係はないのですが、ハイドンは明確に「彼は父であり、私たちはその子だ」と述べているのです。

そして、この快活で器楽的な世界の後には叙情的な性格を持つ音楽を持ってくるとが相応しいことを見いだしました。そこでは、何よりもメロディが重要であることを見いだしたのです。

続く第3楽章には再び活発な音楽が求められるのですが、それは第1楽章よりは軽めである方が収まりがいいので舞曲形式が用いられました。

さらに、それら前半の3楽章を受けとめるだけの重みを持った最終楽章をいかに構築するかが最大の課題であることも明らかにしました。
そのために、形式は4楽章の構成でも軽い舞曲形式で終わっていた過去の交響曲とは全く異なる音楽として立ち現れることになったのです。

ハイドンの職人技もこの終楽章をどう処理するかに全力が投入され、そう言う労作の最高の到達点が「ロンドン」とニックネームのついた彼のラスト・シンフォニーでした。

ハイドン:交響曲第104番 ニ長調「ロンドン」

Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [1.Adagio-Allegro]

Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [2.Andante]

Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [3.Menuet e Trio(Allegro)]

Haydn:Symphony No.104 in D major, Hob.I:104 [4.Finale(Spiritoso)]

あまりにも堂々たるシンフォニーになっているのですが、このライン上の演奏としては悪くないです。

  • 第1楽章:アダージョ(序奏)-式アレグロ(ソナタ形)
  • 第2楽章:アダージョ(変奏曲風の不正規な三部形式)
  • 第3楽章:アレグロ(メヌエット)
  • 第4楽章:フィナーレ、スピリトーソ(ソナタ形式)

編成は弦楽5部、フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット各2、ホルン・トランペット各2、ティンパニという2管編成の完成形に近いものになっています。
今さら言うまでもないことですが、弦楽5部を構成するヴァイオリン属の楽器は最初からほぼ完成形でしたが、管楽器は全て発展途上の楽器でした。
ですから、弦楽5部に対してどのように管楽器をとけ込ませるのかという問題は、管楽器そのもの発展と密接に関わりを持っていました。

ハイドンは100曲を超える交響曲を残したのですが、その実験の大きなテーマの一つがこの管楽器の扱いでした。
彼が自由に使えたエステルハージ家の楽団は当時のヨーロッパではかなり規模の大きなものであり、多くの管楽器を自由に使える環境にあったのですが、それでも最初はかなり抑制的に使われるのが常でした。
ハイドンは慎重にそれらの管楽器を使用し、その可能性を徹底的に追求しました。

オーケストラにおける管楽器は当初は何の序列もなく雑多に使われていたのですが、フルート・オーボエ・ホルン・ファゴットが弦楽5部のヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスに対応するようになり、そこへクラリネットやトランペット(後の時代になるととローンボーン)が追加されるスタイルが一般化していきました。
言葉をかえれば、強力な弦楽合奏をベースとしながらそこへ木管楽器が彩りを添え、トランペットやティンパニなどがアクセントをつけるというスタイルです。

しかし、ハイドンはその様な定型に安住することなく、例えば積極的に管楽器にソロパートを割り振ったり、時には弦楽器と対話を交わしたりと、その可能性を最後まで追求し続けた人でした。
そして、その様な実験精神はこの最後のシンフォニーにおいても健在なのです。
そして、この最後のシンフォニーを聞く人は、その横にベートーベンのファーストシンフォニーが立っていることに気づくはずです。

このハイドンが築き上げた世界はこの後ベートーベンが受け継ぎ、そして、結果としてハイドンが思いもよらなかったような位置へとさらに交響曲の世界を引き上げてしまったので、ともすれば彼の仕事は軽く見られがちです。
しかし、客観的に見れば、彼がたどり着いた位置は交響曲の創始者達の位置から見ればはるかなる高みにあることも事実であり、その意味で彼を交響曲の父と呼ぶことには何の不都合もありません。

とは言え、すでにベートーベンの交響曲を聞いた耳にはどこか物足りなさを感じるはずです・・・残念なことですが・・・。
何故でしょうか?

それは次にベートーベンの交響曲を取りあげる中でじっくりと考えてみましょう。